酔って失くした記憶はどこへゆくのか。酒と宗教についてだらだら考えた


新年度を迎えて、もう二度も飲みすぎで記憶をなくしています。

一度目は4月1日の全社パーティ的なもので、二度目は昨日行った銀座の居酒屋で。「家めし 殊衆」さんといって、Lococomのクライアントさんなんですが、銀座なのに庶民的な価格で料理もひたすら美味いので超おすすめです。

さりげなく宣伝しました。

それはさておき、毎度深酒で記憶をなくすたびに、目覚めたら自宅だったり蒲田のサウナだったりするわけです。どうやってそこにたどり着いたか途中経過が完全にすっ飛んでいるのでいつもびっくりさせられます。バッカスは悪戯な神様ですね。

しかし、なぜ深酒をすると記憶がなくなるのでしょうか。メカニズムを知らなかったのでちょっと調べてみました。

お酒で記憶をなくさないために(カラダカラ)

アルコールが脳に入ると、記憶をつかさどる海馬で記憶の伝達を行っているグルタミン酸を受け取る働きを持つ「NMDAレセプター」という物質の働きが鈍くなります。それが鈍ると短期記憶はできても、そこで得た情報を中期記憶として脳に定着させることができなくなります。

へえ、私の脳みその中ではこんなことが起きていたんですね。ちなみにアルコールで記憶をなくす現象にはちゃんと名前もついているようで、「ブラックアウト現象」「アルコール性記憶障害」「アルコール性健忘症」などというそうです。なんか大仰なネーミングでこわい。

こんなことでもきちんと科学的に調べられているのだなあと驚いたわけですが、お酒で記憶をなくす現象に宗教や哲学はどんな風に向き合ってきたのか、ふと疑問に思いました。仏教でいえば阿頼耶識(あらやしき/あーらやしき)だったり、ユングの集合的無意識とか、オカルトならアカシックレコードとかそういうの。ざっくりいうと人間の記憶や意識がどこかにふわふわ漂って、何かしらの形や影響をなすという思想ですね。

こういう考えに沿いますと、私自身の脳みそには残っていない泥酔中の記憶も、アカシックレコードに取り込まれてこの宇宙になんらかの影響を与え続けていると解釈できるわけで、そう思うとなんだか果てない浪漫を感じるなあ。感じませんか、そうですか。

そういえば、酒って宗教と密接に関わってますよね。キリスト教においては葡萄酒をイエスの血になぞらえますし、日本ではお神酒なんてまんま神事に使われる。原始宗教では酩酊状態のシャーマンがお告げを繰り出したり。神仙が酒の詰まった瓢箪を持った姿で描かれるのはそういうことなんでしょうか。一方でイスラム教、ヒンドゥー教、原型に近い仏教では飲酒はタブーだそうで、なぜでしょうね、教祖様が下戸だったんでしょうか。興味深い。

「酒と宗教」ってテーマで書かれた本があったらすごく面白そうです。すでにあるんじゃないかと軽くググってみましたが見つからず。代わりに面白い記事を見つけました。

飲酒のタブーと宗教 呑むべきか呑まざるべきか(斎藤吉久のホームページ)

飲酒をタブーとしているイスラム、ヒンドゥー、仏教の信徒が、実はけっこう飲んでいたりする、という記事です。

中世の寺院では名だたる「僧坊酒」が公然とつくられていた。河内長野・天野山金剛寺の「天野酒」、奈良・菩提山正暦寺の「奈良酒」、湖東・釈迦山百済寺の「百済寺樽」、大和・談山寺いまの談山神社の「多武峰(とうのみね)酒」、越前・白山豊原寺の「越州豊原」などが「美酒言語ニ絶ス」などと激賞されていたらしい。

これとかすげえ面白いですね。寺院が一級の酒造メーカーとして機能していたとかぜんぜん知りませんでした。一般には流通していたんでしょうか。

ともあれ、一流の宗教者であってもお酒の魅力にはかなわないということがわかりましたので、私のごとき無信心者がそれに抗しうるはずもなく、引き続き鯨飲を楽しもうと心を新たにした次第。

もちろん、本エントリも発泡酒片手にしたためております。「麦とホップ」うめえ。

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