安楽死の甘美な誘惑


いつでも安価に、楽に死ねる選択肢が用意されていたら、一体どれだけの人が人生の挫折時に死を選んでしまうだろうか?

安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること 児玉真美」って記事を読んで考えさせられた。

地獄という概念のない無宗教者には、プラスマイナスゼロである「死」というのがたまらなく甘美に見えてしまう瞬間があると思う。

現状がマイナスで、未来にも展望を感じられないのなら、死んでプラマイゼロにした方がずっとマシだと思ってしまうことは多々あるんじゃないだろうか。

とくに、人生を長い目で見ることのできない若年者については顕著だ。

「人生楽ありゃ苦もあるさ」なんて視点は、ある程度の人生経験を積んで自分を客観視できるようにならないと身につかない。

若年者ほど「ああ、おれの人生はもう終わりだ」と世を儚んで甘美な安楽死の道を選んでしまうだろう。

失恋した、受験に落ちた、就職できなかった、ブラック企業に就職した…などなど、人生に絶望する機会には実に事欠かない。

そんなことでいちいち簡単に自殺できる世の中は、どう考えたって生産的じゃない。

一方で、無制限な介護や延命治療もどうかと思うのがジレンマだ。

筆者は全介助の娘さんと25年間生きてきて、それを喜びと感じているようだが、娘さんはどう感じているんだろう。

筆者さんの愛を疑うつもりはまったくないけれど、娘さんの方には同じ年頃の女の子のように、通学して、恋愛して、就職して、そろそろ結婚を考えている恋人ができる人生を羨み、それができないのならいっそ…なんて思う心はまったく皆無なのだろうか。

そうやって他人事で考えるときはまだそういう計算が働くのだが、自分の身内だったらどうなんだろう。

親父はもう亡くなっている。お袋は(本心ではないと思うが)やたらに死にたがりで、私ら息子に「どうやったら面倒をかけずに死ねるか」ばかりを気にかけている。

こちらとしてはいくらでも面倒をかけられてもかまわないので長生きして欲しいのだが、もし自分が迷惑をかける側だったらと考えると、相手の幸せを考えてきれいさっぱり死にたいと思うかもしれない。

親父が死んでわかったことだが、「死の痛み」というのは案外に刹那的で、時間の経過が癒してくれるものだと知っているから。

それに、もしそのお袋がペインコントロールも効かないような不治の病に侵されて、毎日苦しみに苛まれ、「もう楽にしてくれ」と懇願されたら…?

まったく考えたくもない。頭が痛くなる問題だ。

天国だとか地獄だとか信じられたら楽になるのにね。

理屈や計算では絶対に割り切れない問題について、宗教は答えを用意してくれている気がする。

ひょっとしたら科学万能のこの時代こそ、信仰が必要とされているのかもしれない。

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